何をするにも意欲がわかない。もう何もかも嫌になり、自暴自棄になるときもある。
話を聞いてみると、このようなことでした。
彼は、日頃一生懸命仕事をして、家族に尽くしていたのです。
身を粉にして会社のために、家族のために。
しかし誰も愛してくれない。いや愛されるために仕事をして、尽くしていたと言っても良いのでしょう。
しかし、誰も愛してくれないから、やがて会社や家族を憎み始めていました。
そして、誰も大事にしてくれない、愛してくれないという孤独感に押しつぶされ、完全に何もする意欲がなくなっていたのです。
愛されるためにしていることだから、気力も無くなり、その気力が無くなったのも全て会社や家族の責任なのです。
そう感じてしまっています。
全ては愛されるために生きていると、深層では思っているのであり、そうなってくると、もう手を動かすことも、歩くことも、字を書くことも、テレビを見ることも、何もかも、話すことも、考えることも意欲がなくなってきています。意欲が無いどころか苦痛の中に埋もれていきます。
いい知れない怒りと、憎しみは時として表現され、回りに当たりますが、それを誰も受け入れることが無いようになってくると、ただ、黙り、石のようになって孤独の中に身を埋めていきます。
怒りや、憎しみを表現しているときにはまだ救われます。しかし、それさえも受け入れられなくなってくると石になります。心の底に怒りと憎しみを抱え込んで、ただ孤独に苦しんでいるのです。
その孤独は、ぎんぎんと燃えたぎる憎しみと怒りの炎を秘めてはち切れそうな岩のようです。
人は、私を愛してくれない。真に愛されたことの無い、愛情の飢餓は、誰かが自分を受け入れることをただひたすらに求め、魚が水を求めるように必死にあがいているのです。
そのあがきに誰も目を向けてくれないから、孤独に陸の上で死に絶える魚のような、怒りと憎しみでもだえているのです。
目の前にいる憎むべきものに愛して欲しいのに、そのものには、憎むべきものだから声を上げることができないのです。
この孤独感は死に値するほどのものです。
私に対しても、どうせ私のことなどわかってくれないと思っているようです。
そのような目で私を見ています。何を言っても言葉少なで、反応がありません。
彼の欲しいものをすなわち愛されたいと言うことを、ずばり、彼に感づかせるだけです。
後は、彼に憎しみと恨みを私に対して開放させます。ここが、独自の手法です。
すると、すぐに爆発して、怒り出します。普通なら、ここで私の前から去って行きます。怒る前に去って行く人が多いでしょう。
しかし、カウンセリングとして時間を頂いていますから、逃げません。
これが大切なところです。
孤独な人はすぐに怒り出します。怒る人はすでに孤独で、多くの事に傷ついているのです。
怒りっぽい人は、多くの傷を心に負っているのです。それを痛いと言っているのです。
子どもが痛いと言えば、親はどうしたのと心配します。抱きしめて、撫でいやします。
そのような愛を知らないで、生きてきたから、大きくなってもそれを求めているのです。
それを求めて傷つき、心が痛いと言って怒っているのです。
怒っているのは痛いと言っているのです。
それが受け止められないから、より傷つきより怒り、より孤独になり、より怒り、より憎むのです。
このスパイラルが人を蝕んでいきます。そしてより傷つきやすい、より孤独な、怒りっぽい人になっていくのです。
そして最後には気力も失せ、体も心も動かなくなると、全てが真っ暗闇になります。
その彼の心の中にある傷をさらけ出していくことからが、第一歩です。
孤独になってしまった人には、岩のような固い殻があります。
それを壊してしまうのには、大きな力が必要です。
まず、壊しうるポイントを見つけ出し、そこに手を差し込んでいじくり回すのですが、これは、勇気の要る作業です。
相手の虚を見つけ、そこに我が全てを入れていくのです。
必死になって防御しようが、容赦なく、討ち入れていくと、彼の心の内の怒りや憎しみがあふれ出します。
そのあふれ出した怒りや憎しみも、ことごとくねり回していきます。
この第一歩が成功し、孤独感が完全に解放され目の前に現れます。
そして次にやっとこの孤独感の原因に向かうことができるのようになったのです。
こうなれば後は、ゆっくりと彼が納得するまで、その原因を見つめていく作業を繰り前していきます。
その原因は、表層には体の動きや、言葉、目の動きや気に現れますから、その表層を捉えたカウンセリングで、きっと彼は愛されることの相対性と、愛することの絶対性に気づく日がやってくるはずです。
いい知れない意欲のなさの深くには、孤独感が石となり固まっている場合のケースです。
これを打ち壊すのは、石の中にいる自分には困難です。
石を誰かに打ち壊されてみると、清々しいものです。