愛されない寂しさへの恐れ

寂しさの癒し

寂しくて仕方がない人は、人と人が擬似的に愛し合う振りをするダンスセラピーなどが、取りあえず一番癒されるのだろう。

しかし、ダンスセラピーはリゾートに行くような感覚なのです。一部の人は依存症になります。

本来はリゾートに行かなくても、どこにいてもいつもリゾートにいるのと同じ感覚の方がいいはずです。

本来は人間がいない世界、すなわちダンスやグループセラピーがなりたたない世界でも、寂しくなくいられる用になっておくことが望ましいのです。

その為には、寂しさをひととき充足をするよりも、とことん寂しさに埋もれてしまう方がいいのです。

ただ、ダンスやグループセラピー・リゾートで癒しの感覚を知るにことができるので、一度は体験してもいいと思います。もちろん、本質的な癒しの感覚を知っている人は体験しなくてもいいでしょう。逆にひとときのその場限りの無常の癒しは体験しない方がいいでしょう。

人間という存在を通じないと愛を感じることができなければ、人間がいないと寂しさを感じるのです。

それが、一人になるのが怖くなる理由です。一人になっても、全てに愛されていることを思い出すために、インディアンのビジョンクエストを絶対にお勧めします。

 ダンスセラピーなどで癒しを体験すること、これもいいでしょう。しかし、これが全てではなく、相対性の世界での出来事であることを、知らない人には教えてあげた方がいいでしょう。

ダンスセラピーもリゾートも麻薬と同じ諸刃の剣です。

ダンスセラピーやリゾートに愛の発露で参加するか、不安に駆られて参加するかで大きな違いがあります。多くは現状から逃れたり、疲れ安とレスに対する不安からでしょう。

愛で参加した人は癒しの心地よさを知り、不安で参加した人は充足を得るのです。

充足は社会に戻ると又空っぽになり、又求めます。

大切なことは充足を求めるより、全く空っぽにしてしまってから心地よさと楽しさだけを受け入れるのです。

寂しい、愛されていないという気持ちは素晴らしい感情であり、完全な気持ちです。

その寂しい、愛されていないという気持ちを癒すのもいいかも知れません。

しかし、癒しも愛されていないも相対性で片方には癒したい愛したいという欲求があるのです。

充足は削れた部分を埋める行為です。社会生活で愛されないと言う気持ちを、ダンスセラピーの疑似体験で一時的に充足するのです。愛されたいから愛してもらうのです。その場では愛してもらっても、いつまでも愛されたいという気持ちは果てしなく続きます。又充足が必要になるその繰り返しです。

全てに愛されていることを思い出すためには、ビジョンクエストの様に、愛されたい対象から愛されない環境に身を置くことです。愛されたいという気持ちを自分で発見し、その無常さを自分で知利、愛したいという自分を見つけることです。そして全てを愛している自分と、全てに無条件で愛されている自分を発見することです。

カウンセリング理論で行くと、受容と迎合です。

受容と迎合は一体と依存程違います。

それが分かれば、ダンスセラピーもリゾートもとても素晴らしいものと変化します。

人生のパートナーと出会い

人生のパートナーを考えるとき、その人が人生の目的をどう考えているかによります。

人生の目的が全ての存在に一体性という究極の愛を思い出すことにあるのなら、共同創造のパートナーはその本来の自分を思いだしている人全てがパートナーである。すなわち必ずしも一人でもなく、人間だけでもないという考え方です。ここではこの様な目的を有する存在を「宇宙人」とします。

そのように考えると、人生のパートナーは、目の前にあるココアも海で泳ぐエビも、小さなほこりも全ての存在がパートナーであるのです。

しかし、パートナーを人間生活のパートナーということに限定するので有れば、そのパートナーはあくまで人間生活上のパートナーであり、もし片方だけが、人間限定ではなく宇宙人(前述の一体意識で生きている人のこと)としての自分自身の一部が地球人であることを認識していたとしたら、片方から見るとその人の言動は「奥様は魔女」みたいに非常識であり異質に見えるでしょう。

もし相手が、自分を地球人(パートナーは人間だけと考えていると仮設)としか意識できていないパートナーなら、それは地球生活上のパートナーであると理解し、もし相手が地球人であっても自分が宇宙人であることを忘れないことが大切なのです。

すなわち、その相手の限定された地球生活にとらわれないことでいることでいることです。

あくまでその限定言い換えると相手の価値観は、地球での生活上必要なことであり、それは、宇宙人であり続けること(行動することではなく、思考のことです)の制限にはなってはなりません。

私たちも地球上の生活に必要なものはもちろん思えば全て手にはいります。

しかし、もし、それを手に入れようとする為に不安に支配されたり条件を要求された場合でも、本来の自分から発せられる、すなわち宇宙人としての言葉、もっと言い換えると魂の声とも言える、純粋意識からの感情に従い続けないといけません。

逆にその、真実の表現により多くの制限を加えるような地球生活のパートナー、すなわち現象としてのみ存在する形式やマニュアル、経済、状態などの無常の欲求を望むなら、その様なパートナーが現れるだけです。

私たち人間は、本来は宇宙人であって、無条件の愛を持ち、お互いに地球人としての条件から来る疲れを癒し、地球上の生活を協力して築き、お互いの全てを受容する地球生活上のパートナーを望んでいるのです。

それ故に、地球生活上の価値観の一致も必要なのです。現在の社会では最も重要になっているかも知れないものです。

その価値観が一致する宇宙人のパートナーと完全なる愛の解放で繋がったとき、地球上の生活というものも一体感をもって迎えられるのです。その、一体感を望む気持ちが恋であり、地球生活上の最高のパートナーを望む感覚なのです。

ロマンスとは

恋は、どの様な相手を恋するか解らない、ロマンスは恋愛のプロセスのことであり冒険なのです。

同じ地球生活上の価値観で引きつけあうか、本質的なもので呼び合うかどちらでもロマンスです。

どちらも、その冒険(相手を知ろうと勇気を持って挑む)の中でお互いの価値観を知り、人間の本質すなわち魂の同一性を発見するのです。

そして恋は実り、一生涯の地球上のパートナーとなるかも知れません。

しかし、地球上の価値観だけで結びついたものの悲劇もあります。

人生を生きてきた人間の価値観は様々です。その価値観を照らし合わすだけで、同一でない価値観を発見したとき、たまたま結びついた場所がその価値観であったのでその関係は簡単に崩壊します。

地球上の価値観はあくまで魂の同一性という真実の上に羽織ったコスチュームであり、そのコスチュームは違っていてもいいのです。

ただ、同じような好みのコスチュームを羽織ることを喜び合い、相手のコスチュームを美しい、素晴らしいと感じれるのは、宇宙人であるお互いの愛を感じ有っているからなのです。

恋は、ロマンスであり、冒険です。

地球上の生活をより快適にするためのお互いの地球人能力の表現と知覚感覚がより近い地球上のパートナーを捜す冒険なのです。

そして、宇宙人であったことを知った又は知っていた二人は、同じ地球上の生活をより多くの価値観を共有して楽しむことができます。

あくまで人生の目的は魂で完全に一致していて、その上の価値観であるから、共有できなくてもいいのです。ただ受容し共感できることを楽しむのです。

そのようなパートナーは一体である事を示す人生を目的にしたパートナーであり、もちろん全てを愛すことができるのです。

その全てを愛することが出来る行為はもちろん賛美される素晴らしい行為であり、そのパートナーが宇宙人どおしで愛し合うとき自然な愛の表現なのです。

愛より自然な行為は何もありません。

もちろん、そのような人はあらかじめ条件やルールは守ってねと、宇宙人である地球生活のパートナーに言うわけはありません。ただ、宇宙人であることを知らない、地球人にはそうするしかありません。その場合は相手の不安を包み込みながら、愛を与えるだけです。

真実の愛を知るものは、相手の不安は全て解ります。本質すなわち魂が感じる違和感で解るのです。その時の感情が教えてくれます。

その感情が愛に基づいているなら違和感が無く、それが不安に基づいている場合は違和感があります。愛の選択、すなわち魂の真実を選択するのが正しい選択なのです。その正しい選択を魂と一体である宇宙人は知っているから無意識に出来るのです。そしてもし、その選択を出来なかったときは、やり直せばいいのです。そして、いつもその選択を行い続けることで、一体である自分であり続けることを知っているのです。

全てと一体である自分は愛に満ち、喜びに満ち、幸福感にあふれることを知っているのです。

そして、そのような人はその姿を表現し、多くの人に愛の選択を示します。

私たちはこの様に、心より、多くの人に地球上の生活が快適である、地球的価値観が共有できるパートナーが、宇宙人である自分を知った人の中から見つかることを望んでいます。

そして、人魚姫のように人間になることを望んで、人魚に戻れなくなってしまわないように願います。

そして人魚姫は冒険とロマンスで、人間と一体になる覚悟でこの人間世界を生きるのです。